2002年11月 6日水曜日
am 9:40
小泉はお肌が気になるお年頃のようで、なんか美白をやっているようである。
そして、節操のない扇千景(林弘子)は「改革なくして成長なし2」に、笑っちゃうでしょ? と言う。
うむ…
そんで、週刊朝日「「竹中平蔵」の研究」を買ったのだが、まだ読んでいないが、なんか、なんだかんだ言いながら、ヨイショ記事のように思える。
そんでは、Vinyである。
今週読んだ本である。
なんせ、日曜日にネット・ゲームをした関係で、そんなに読んでいない。
遠藤周作 「らくらく人間学」
1995年に出版されたものであるからして、死ぬちょっと前のことであろう。
この本の中で、公明党ができた当初、国会のしきたりがわからないで、ついつい国会対策費のことを質問してしまい、他の野党も協力してくれるかと思ったら、予想外の大激怒を起こして、与党と一緒になって、なんかよくわからない理由をつけて、国会の議事録からそのことを削除するにまで至ったという話を知る。
それ以外のことについては、この当時よく出ていたBig tomorrowのようなことばかり書いている。
河野修一郎 「検証! くらしの中の化学物質汚染」
2001年だから、去年出た本である。
ゆえに、データは新しい。
印象に残ったのは、ケツの方に出てくる薬の話。
風邪薬で出てきたものに、無関係な関節炎の薬が入っていたという、くだりである。
その他にも、農薬の話なんか、かなりショッキングである。
そして、出ました
浜田和幸 「ヘッジファンド 世紀末の妖怪」 文春新書 021
これが、ものすごく面白く、重要な本である。
1999年に出た本なのだが、なんせ現在進行形なもんで、なんか驚く。予言書以上のヒット率である。
現に、つい最近、アメリカでマリュワナを自由かするとかしないとかの投票のニュースを耳にしたわけだし…
そんで、共通する展開として、GNPにともわない、いわゆるバブル景気が起こり、それがポシャッて、不景気というのが、アジアでも、日本でも、そして、アメリカでは株バブルとして起こっているのだ。
そして、ヘッジファンドに資金提供している銀行の多いヨーロッパでは、アジアが一気に冷え込んだのに、急に盛りあがるというグラフを見て驚く。
これは、ぜひとも読むべきである。
吉本ばなな 「キッチン」
これは、少女漫画を活字にしたものである。
で、ちょっと、私のメモから。いや、答えに至るまでの思考の過程を見てもらおうと思ってね。
そんで、吉本ばななを評価した者達は、少女漫画を読んだことがないので、新しい文体と思ったように思われる。
時は1988年。バブル期である。
現実感の薄れた、まるでロココ様式のような、中味のない世界である。
キュート、ファンシー、かわいいものを愛でるもの、母性的な、あー、something.
一般論の絶対的な肯定を土台とした人間観、運命論的視点。
「かくあるべし」に支配された世界。
パターン・エピソードを羅列すること。
人間とはなにか?
Eddie KNK→マシーン
吉本ばなな→統計学的精度に基づいて導かれたキンタマの毛(いや、これはこの当時適当な言葉が見つからなかったのだ)
こっちとら、いかにピントを合わせ、本質を見抜こうとするのだが、この作者は、その逆だ。違和感。理解できない。
「なぜ?」 VS 「なぜ?」がない
「漠然として死の恐怖」 VS 「そんなものは日常」との違い。
うむ。バブル期か。
やはり、少女漫画を読んで、そのロジックワークを研究する必要があるだろう。
以上が、メモである。
で、答えを見つけたわけである。
そう!
そうなんだよ!
答えは「ままごと」だ。
男性諸君。
つまり、彼女のイマジネーションにおいて、君は、インテリアを構成するもののうちで、
の役割なのだよ。
幼児期において、「ままごと」という、社会教育を洗脳的なプロセスによって教え込んだが故に、その代償として、君は、
となるわけだ。
そこに精神らしきものすらないのもうなずける。
一つ聞きたい。
「なぜ、それが幸せなのか?」
1.既にそういうことになっているから
2.一般論としてそうだから
3.女性セブンにそう書いてあったから。
1〜3の中から選べ。例外は認めない。
そういうことなのだ。
だもんで、そこで展開されているのは、小説のようでいて、実はそうではなく、人形の代わりに登場人物を使って、ままごとを再現して見せているのだ。
ほとんど無意識だろう。
この恐るべき修正は、そのように教えられてきたからであろう。
つまり、頭の中では、「なぜ?」などとは考えることもなく、ただ、与えられたシナリオ、つまりは、恋愛をして、結婚して、子供を作って、それを育ててって一連のシナリオだが、与えられたシナリオをこなすためのディティールのための男性と、それから、シチュエーション、細かなプロットを組み合わせて、ままごとをおこなっているのだ。
それが女の幸せである、と。
で、男はというと、そういうことをやらせて、女心を歌います、演歌ですってな男が考えた歌詞を思い出して、勝手に染みるわけだ。
おかしな話である。
そんで、まあ、たしかに、そこにあるように、食べることと性欲は同一であるとした、作者の定義によって配置されてはいるわけである。
ゆえに、作者のあからさまな願望もそこに現われていて、それが肯定されているわけだが、本当の願望は、ホント、積極的じゃないあなたでも、私がなんとかしてあげるわってな母性本能ではなく、ままごとを再現することにあるのである。
本当にしたいことは、である。
本当に知りたいのは、「なぜか?」ってことだ。
自由とはなにか?
知るかい。コイツは反応機械でしかない。与えられた動作を、推称された動作を正確にこなすだけのね。
そんで、はっきり言うが、そこには精神はない。
筒井康隆 「時をかける少女」
一応、これが筒井氏の代表作ということになっているので読んだのだが、はっきり言って、つまらない。
なんせ、子供向けだから。
だもんで、もちろん、首を絞められて失禁とかはない。
そんで、その当時かわいかった原田知代は、今では目の座った年増になってしまった。
`村上龍 「トパーズ」
演歌
なし
なし
そんで、思ったのは、子供に与えられるべき「おもちゃ」とはなんだろう? ってことである。
そういえば、おもちゃとは、実に、政治教育的な正確を帯びたものなのだ。
職人文化の頃には、駒であったり、竹とんぼであったり、たけうまであったり。
戦時中は、兵隊や戦車のおもちゃで、子供達は戦争ごっこをした。
それから、戦争がなくなれば、なくなったで、別の争い事を教えるおもちゃが登場するわけだ。
争い事に関係するおもちゃをあげてみようか?
ガンダムのプラモデル、ウルトラマン、野球のバット、野球盤。まあ、数え上げるとキリがない。
そして、女性にはままごとセットであり、バービー人形であり、リカちゃん人形であったわけである。
「教育」である。
そのものズバリの「モノポリー」とか、「人生ゲーム」ってものもあるわけである。
将棋、チェスも戦争だし。
オセロも相手を負かす喜びを教える。
`だから、おもちゃというのは、そもそも、「教育」がひそんでいるのだ。
遊びについても同様。
かけっこ、鬼ごっこ、サッカー、野球、それから…
考え始めると、きりがないのである。
おそらく、天声人語でも答えは出ないだろう。
そして、子供は自分のおもちゃを見つけられないのだ。
自由とはなにか?
ネコのおもちゃの方が、おそらく、自由であろう。