えりょーとは何か?
 
 深い意味はない。このコーナーは単なる日記である。メッセージ、声明でもある。
 
5月20日 (GMT +9) 
 
AM 3:03
 で、話が飛び飛びだって思うんだよね。
 昨日のは。
 
 うむ。
 で、外人も結構読むようなんだよね。
 英語のネタが論文コーナーぐらいしかないのに。
 
 だから、外国人的には私をマッドサイエンティストと思っているだろう。
 
 なんじゃそりゃ。
 
 だもんで、昨日の続きはブツ切りにして、今日は
「たのしい数学 特講」
 である。
 
 特に日本では重点の置かれないものに、哲学と論理学があるだろう。
 
 子供の頃に「算数」を習うわけだ。
 幼い頃の記憶の糸をたぐり寄せてみよう。
 
「ここに一個30円のりんご(今時そんなリンゴはないが)が5個あります。
そして、ここに一個20円のみかん(ここまで価格破壊が進んだら世の中どうなるんだろう?)が7個あります。
 合わせていくらになるでしょう?」
 
 実に下らない問題だ。答えはもちろん、250億6千万円だ。ブラックホールの内部においては。(うそ)
 
 で、すぐに我々は計算のことを考えがちだが、ここでもう一歩踏み込んでみるわけだ。
 
「ここに一個30円のリンゴがある」
 
 これはリンゴという物体の存在を宣言し、そのリンゴには商品としての価値として30円という金銭での評価が与えられているという定義であるわけだ。
「長ったらしい!って?
 その通り。
 単純に書けば、「リンゴの金額の定義」ということになる。
 そこで、リンゴという物体を存在として認識した上で、それを単位と定義したわけだ。
 このときに中心となる単位はリンゴという存在の「個数」であるわけだ。
 
 これが「存在単位」である。
 
 そして、リンゴという存在単位には「30円」という値が定義される。
 
 よって、これ以降に、おそらく展開されるであろう計算においては、そのりんごの存在単位1を元に、イコールで結ばれる「30円」という増量規則性で計算が行われるであろうことが推測できるわけだ。
 
 ここまでに間違いはありますかな?
 
 これは哲学における実存主義の実存に対しての考え方と定義を導入している。
 もちろん、ハイデガーの「存在と時間」(名著)の頃よりもより具体化させているが。
 
 単純なようで、クソ難しいのだよ。
 しかし、扱っているのは当たり前のことである。
 よって、一般的に哲学に関することは、「当たり前だと思っていることが、実は難しい」と言われるわけだ。
 
 かつて、それは太古の昔においては、宇宙の始まりを「最初に理性(ヌース)があった」と考えた人、まあ、学派だろうが、いたわけだ。
 そこで、君はおそらく気がついているだろうけども、「その理性は誰が記述したのか?」または、「その理性はどこに属すのか?」という疑問が生じるわけだ。もちろん、パラドクスも含んでいる。
 
 これは実存主義とそれ以外のものとに分ける一つのポイントなのだ。
 まあ、唯物論としてもいいわけだが。
 
 「精神は物体という実存在、実存に属する」
 
 この点はいいだろうか? わかるよね?
 思考は脳味噌の活動による産物であるわけだ。
 この点について疑問点はなかろう。
 
「思考は脳味噌の活動に属する」
 
 これを定義しよう。
 
 そこで、さっきの話に戻る。
 宇宙の始まりにおいて、もし、理性が先に存在するとなると、その理性、それは思考という言葉のカテゴリーの中の一つであるわけだが(脳味噌の下に思考は属し、理性は思考の下に属す)、その思考を所持する者は誰なのか? ということになる。
 
 まあ、結局は、我々の知っているように、この仮説(?)は世に残らなかったわけで、エピソードだけが伝わっているわけだ。
 
 ここで、もう一つの重要なポイントの登場だ。
 
「実存在である人間が先に存在し、それの持つ脳機能が昨日しており、思考活動をした状態においてから、認識と解釈、定義などの思考行為はなされる」
 
 という点だ。
 なんで、こんなに長く書くかというと、屁理屈をこねられないようにするためだ。
 
 いいかな?
 ここまでの話がいかにパーフェクトかは疑いようがないわけだ。
 
 これらの定義を手元に紙とペンを用意してメモしよう。
「思考は脳に属する」
 これが第1の定義。これの活用形は、「人間が先に存在することによって、脳活動による思考は存在しうる」だ。
 
 ここまで長ったらしい話をした上で、元の問題に戻る。
 
 まず、質問がそこにある。
 これは出題者が想定したシチュエーションが語られているわけだ。
 まず、架空の舞台設定が行われるわけである。
 それは「文字」として書かれており、実際に目の前にリンゴとミカンがあるわけではない。
「想像してみよう、前の前にリンゴがあるとする・・・」の省略であるわけだ。
 
 まあいいや。
 メタ、もしくはイデアと実存の違いに気づかせようと思って、この部分を書いたのだが。
 
「ここに一個30円のりんごが5個あります。そして、ここに一個20円のみかんが7個あります。合わせていくらになるでしょう?」
 
 これが問題だったわけだ。(よけいなコメントは削除してある)
 
 出題者はリンゴがそこにあると、ミカンがそこにあることを定義している。
 リンゴという存在は、その場所においては5個あり、ミカンという存在はその場所に7個あることが定義として宣言される。
 
 ここまでにおいて、我々は対象とする者が「リンゴ」や「ミカン」などの物体とその差位性を指すのか、「5個」や「7湖」などの「個数」を対象とするのか、それとも、「30円」や「20円」などの金額を対象とする者であるのかについてのある程度の展開の想像がつくわけだ。
 それはもちろん、対象の区別が出来ており、認識されているからである。
 
 ここまでのプロセスが哲学者と数学者の大きな違いの一つでもあるわけだが、私以降はトレンドになるだろう。
 こういうことをしていたら、軸の勘違いもなかったのにね。
 哲学者は時に数学者だったこともあるのだ。
 歴史においては、パスカルやデカルトのように数学と哲学においてその名を残した人物はいるわけだ。
 ただ、1800年代、いや、ニーチェが出て、ハイデガーが登場する前は、精神世界が存在すると信じられていたんだから、仕方あるまい。
「いいや! 魂は存在するのだ!」
ならば、医者にかかるのはやめにして、祈祷師に祈祷してもらうといい。十分苦しんだ挙げ句に、私の言い分に納得をするだろうから。
 原始人は体の病は悪魔がつくからだと思って、鋭利な石で頭を割ったらしい。
 おそろしい。
 だから、原始人の頭に穴の開いた骨が結構見つかっているらしい。
 子供の頃、そういう本を読んだ記憶がある。
 
 それはいいとして、問題の戻ろう。
 
「ここに一個30円のりんごが5個あります。そして、ここに一個20円のみかんが7個あります。合わせていくらになるでしょう?」
 
 定義部分に次いで、出題のパートが出てくる。
「合わせていくつでしょう?」
 まあ、わからない人はいないのだが、実はここで曖昧表現があるのだ。
 まあ、まともに考えれば、「いくら」という言葉に対応するのは金額を指し示すことはわかるわけだが、
1.対象とするのがリンゴとミカンを合わせる(ジュース?)なのか
2.リンゴとミカンの個数をすべて合わせた総計なのか?
3.リンゴとミカンに与えられた金額の合計値なのか?
という分岐があるわけだ。
 これが俗に言うswitch factorなんだけども。
 
 「いくら」という語に対応するのは、個数か金額かのいずれかであることが推測される。しかし、個数については「いくら」という言葉よりも「いくつ」という言葉の方がよりふさわしさを感じる。
 ゆえに、金額が選択される。
 そこで、前方の定義が参照されるわけだ。
 そして、計算が行われる。
 
 計算の展開である。
30×5+20×7=290
 
 この計算式における優先順位の度合いが分かるだろうか?
 
 かけ算は足し算の圧縮であるわけだ。ゆえに、単体では存在しない。(30×5)が一つの値を示しているわけだ。
 これはある種のマクロ展開なんだけど、わかるかなあ・・・
 
A=150
B=140
と定義して、
A+B=290
とするようなものなのだ。
Aという代数、まあ、マクロでもいいのだが、これを数字で置き換えていると思おう。
 
 だから、分数も何かの具体的な数字が表されているわけではなく、計算が実行される前の「式」の姿がそこにあるだけなのだ。
 
 で、知っての通り、わり算においては割り切れないケースがあるから、変換できない場合がある。
 
 まあ、いいや。これらのことは論文における数学パートにも書かれているので参考までに。
 それと、"Eddie KNK's NOTE Vol.3"はこの自注損主義数学に書かれた本の原稿である。希望者にはCD−ROMで販売をしてもいい。ただし、受注販売だ。
 
AM 4:27(GMT +9)
 で、これだけのものを子供に教えられるかどうか? だ。
 存在論を教えるだけでもものすごく大変なのだ。
 ハイデガー「存在と時間」を読む小学1年生がいたら大変だからね。
 だもんで、それもあって、これまでの数学も残しておこうと思ったわけだ。
 
 アインシュタインは消えるけども。
 だって、当たり前でしょ?
 電磁場の広がる速度が秒速30万キロメートルで、光はその電磁場の中で展開される波なんだからだ。小学生でもわかるぜ?
 ドップラー効果も説明されるしね。
 お年寄りだって、こっちの方を受け入れると思うけど?
 
 すんげえ簡単な答であるから、尚更ムキになっているんだろうねえ。日本物理学会は。
 でも、それって、アインシュタインが悪いんだよな。
「I.Q 180」なんてウソ話を聞かされてきていなかったら、そうは騙されなかっただろうに。
 
で、当時も「そんなわけないだろ」って考えが多かったわけだ。
 エーテルの抵抗で物体が縮むって説の方が、まだわかりやすい言い分だったからね。ところが、エーテルは存在していないから、アインシュタインが残ったってだけで。
 で、あまりにも怪しいんで、もっともらしくするために出てきたのが、「I.Q. 180」って話だろうと思うんだよな。
 だって、普通そんなこと言わないわけじゃん?
 
「熊を一撃で倒した男 ウイリー・ウイリアムス」みたいなもんだよ。
 
 
以上
Eddie KNK         
Back to the head page