2002年7月31日水曜日

am 9:49

最終回。

みなさんに哀しいお知らせがあります。

今日で「札幌ばち当り娘・ばち当たり腕人形〜真夜中の腹話術」は終了になりました。
今まで、実に短い愛田、いわゆる「るか」ですか、本番女王、生じゃないとだめ、って! 変換ミスをそのまま利用してネタにすると、話がわからなくなるでしょ!

しきりなおし。

今まで、実に短い間でしたが、おつきあい戴きまして、有り難うございました。
今度生まれ変わっても、この「ばち当たり腕人形」はやりたいな… と思う次第です。
私は、無神論者です。
なんのこちゃ。

毎回、おんなじネタの月末であった。

明日からは、新コラム「恋の一本ぐそ」が始まります。



そんで、なんだかんだ言って、読んでいる客はFreeBSDからの客が多いのかもしれないが、現在、私はRed Hat 7.3を使用している。
だが、まあ、実に不本意ながらも、アクセスありがとうと言っておくしかないわけである。
だもんで、他の方面からの客の開発(って言わないのだが)もしておきたいところである。
でも、J-waveやテレ朝方面では、若干、評判がいいようではあるが、「サトラレ」は人権侵害行為だぞ、と言っておく。
んなことはどうでもいい。

今日のお話し。
来月からの新コーナーにも関係するのだが、日本では、本場のフランスよりも「シュール」と称する、シュルレアリスムが普及しているわけだが、これと、かつての「禅問答」および、日本的なる「行間を読め!」には似通ったところが多い。
っていうよりも、曲解であろうと思われる。
で、今回の問題は、このところ登場する「行間を読め」についてである。
これは、実のところ、ピントがあっていないのだ。
で、わかったような「気分」になることで、なんとなく対応するというわけだが、その辺のトリック、および、催眠で、とかく日本人は、日本的なる亊、物事に対しては、「持っていかれる」ことが多いようである。
これが曲者なのだ。
で、つきつめると、私の成果というものは、その様な抽象的なる定義を具体的なるもの… そう、ピントをあわせることによって得られたものであると言ってもいいだろうと思うのだ。
で、その経験上言わせてもらうならば、言わなくてもいいのだが、言わせてくれなくても言うのだが、なんじゃそりゃなのだが、ネタを入れなくてもいいのだが、話がわからなくなってくるのだが、

「およそ理由、根拠がなにも示されずに、こう行動すべしだけがそこにあるものは、誘導か催眠であると疑ってかかるべきである」

と、いうことなのだ。
宗教的な教義であるとか、ナチスのロジックであるとか、共産主義のロジックなんかを読むと、つくづくそう思うのである。
おそらく、多くのものは、アドルフ・ヒトラーの「我が闘争」であるとか、カール・マルクス(マルクス兄弟(グルーチョ・マルクスとか)ではない)の「資本論」とかを読んでいる者は少ないだろうし、「行間を読め!」で、わかったような気分で、「右だ! 左だ!」とコメントして来た人が多いことだろう。
そんで、現代、現在に生きる我々は、なんとも好運なことに、実にニュートラルなのだ。
だから、ピントさえあえば、実にわかり易いのだ。
政治的なる催眠にかかってないからね。

だから… 当時の代表的な催眠をいくつか挙げてみようかな?

「ブルジョワ的な文化を破壊し、プロレタリアートによる文化を実現する革命を行なう」

これは、文化大革命の頃の中国の頃によく出てくるフレーズなのだ。

で、初めての青少年に用語の解説をすると、「ブルジョワ」はイコール「金持」で、「プロレタリアート」イコール「労働者」なのだ。
で、我々は、博打やったり、宝くじ買ったりするように、金持になることを夢見るわけだ。
「でっけぇ豪邸に住んで、愛人を山程作って、豪遊してえ」ってな夢があるわけだ。
誰しも。

それが悪であるならば、そういう禁欲的な状態においては、誰しも努力を行なわないものである。
もしくは、宗教的ななにかだ。ピューリタニズム(清教徒(この「ピュー」で察視がつくと思うが、pureと関係がある))でもそうだし、「欲を捨てなさい」の仏教にもつうじる。
そこで、「諸国民の冨」のアダム・スミスの登場となるわけで、これの成果については、「あんたが今味わっている「それ」だ!」と言っておけばいいだろう。
問題なのは、「全ての人が軒並み貧乏になり、誰一人として上に上がることの出来ない世界」であるのか、それとも、「チャンスがあれば、自分の努力と運によって、それに応じての利益がスムーズに手に入る世界」なのかの違いだ。
で、文化大革命の頃の中国では、血縁が優先されたそうだ。
それで、アドルフ・ヒトラーであるが、マスコミは、アホなので、今でもその手法が通用すると思っているようだが、

一体、いつの時代だと思ってんだ?
なめんじゃねえぞ。

って言いたいところである。

そう、連中の弱点は、「客観的な」視点で、物事を見て、冷静に判断させればいいだけのことであるからだ。
そして、先人から蓄積された知識が役に立つのである。
だもんで、今日の人々に、「ブルジョワを打破し…」と言っても、すぐにそのトリックに気がつくのだ。
(俺が自由を教えたからだが)

いずれにしろ、連中は、君等を利用するために、やれ戦争をしろだ、ブルジョワを破壊して、プロレタリアートによる支配をとかいうわけだが、
結局は、連中に利用されただけでおしまいなのだ。
美味しいところは、ヤツらがもっていく。
「こう行動すべし」だけ残して。
君が、やつらの誘いに騙されて、その気持ちにさせられても、コントロールする権利はやつらの手にあるのだ。
共産主義にしろ、ナチズムにしろ、大日本帝国にしろ、ニーチェにしろ。(俺は実存主義だが)
ナンセンスだ。
だから、本来、「俺は、利用されてやらない。逆に、利用してやる」だと思うのだ。
だから、「インターネットによる直接民主による政党」なのだ。

まあ、いいか、

だから、コンゴから反応があるんだよ。

俺には、催眠はない。
なんせ、手にする権力がなにもないからだ。
「フランス啓蒙思想は死なず」だ。
ジョン・ロックだ。だから、Rock Linuxも出来るのだ(そうかどうかは知らない)。
誰も死なないのだ。
誰も独占しないし。
そういうことだ。
そして、自らの努力が報われる世の中こそが正しい世の中だと、私は考える。
血と、汗と涙。
「こう行動すべし」という誘導、洗脳、催眠には気をつけようってことである。
あとは、全て、君の自由だ。
俺は、「やつら」とは違うのだ。
ニュースを見る度に、これを思いだして欲しい。

そんで、俺の得るものはというと、見てのとおり、俺の自由だけさ。
そして、権利。
やつらの都合で不等に侵害されている。自由と権利だ。
君等が当たり前に手にしている、「それ」だ。
連中には、正当な理由がなにもない。だから、「行間を読め!」による騙しに頼っている。
ウチのなじみのお客さんには、もうお分りだろう。
君らをコントロールしようと企む、「ヤツら」の方が問題だ。
で、その「始まり」の日テレが、「モーニング娘。」を使って、どういう悪さをするのか…ってことだろうが、どうせ、なんにもしないだろうさ。
日本テレビの考えていることは、極端な心理反応を意図的に示すことによって、ライブによる反応ではないということだけを考えているからだ。
一番卑怯な連中だ。
障害者の番組なのにな!
だから、去年も反省したふりをしておきながら、この1年なにもしていないだろ?
つんくとしちゃ、おいしいだろうけどよ!
Fuck You!
そんで、俺とモームスとは一切関係ない。
あれはつんくの好みだからだ。
俺としては、ひでえ押しつけでしかない。
で、8.17 Live、通称、「ピー・ライブ」であるが、あんましやる気ない。
どうせ、つまんないし。
で、不平不満をぶつけても、反省したふりするだけだ。
女子供を人質に取ってだ。
実に卑怯なクソ野郎だ。
そんだけのことだよ。
とっくに、展開は読める。
だから、やる気ないのだ。