どへらぽ〜ん

2002年01月15日火曜日

「アタシV6のファンなんだ」
「私も」
「アタシ、V6の権太郎と喜八のファン」
「私は五助と与五郎のファン」
(世間知らずの二人)

今日も小ネタからスタートする。
個人的には、このネタは面白いと思う。
「そんなのいねえよ!」というパターンのツッコミを入れていないのが効いている。
そういえば、昨日は成人式だったらしい。
酒を持ち込めるかどうかで命を賭ける野郎どもの武勇伝を耳にする。
ある意味で語り草だろう。しかし、コトがコトなだけに、そんなにカッコもつかないだろう。
なんせ、思想もなにもない。その辺の理論武装をした時代と違って、今は単に衝動的なのだ。だから、そこには意識らしい意識もないのだ。
まあ、理論武装した時代も、うわべだけで、たいして自覚も意識もなかったのだが。

その最たるものが、青春ドラマで展開された思想、キーワードの「青春」であろう。
それは’80年代後半から始まるいわゆる「トレンディー・ドラマ」と言われた、抽象的なる「愛」を概念として持っていたドラマだろう。
いずれのケースにおいても、具体的な根拠、具体的な対象を持たずに、行動様式がそこにあり、行動するように示唆される。
ある種の催眠ドラマなのだ。
「なぜ?」という疑問符をつけ始めるときりがないのだが、見ている者には気が付かないのだ。
「なぜ?」
これを忘れちゃいないかな?
「お前が好きだ! バッキャロー!」と、町中で叫ぶヤツがいたら、どう思うだろう?
これはイマジネーションの中ではリアリティーのある衝動なのだ。だが、実社会、現実世界においては、リアリティーがない。
その一線を越えたのが、田代まさし氏であったりするわけだ。

万引きをせずにいられない衝動を持つ者もいたりする。
これは、分かりやすい、「一線を越える」についての例だろう。
そして、衝動買いが止まらない者もいる。
この辺の一線については、どうだろう?  結構スレスレの人も多いんじゃないだろうか?
そこで、やっぱりそこが大人かどうかの一線を引くことになるんじゃなかろうか?
そして、いつでも転落する可能性の中で、その自由と責任を背負うわけだ。
流石に、たばこで破産するヤツはいないが、酒でアル中になって人生を棒に振るとか、博打で破産するとか、女に狂って破滅するとか・・・
そのスレスレの一線を渡っていけることが大人だと思うのだ。